農家と消費者が野菜を手渡しでやり取りする様子と、土や芽をあしらったアースカラーのフラットイラスト

「有機」ってそもそも何だろう、と農家として考えてみた

お客さんから、ときどき「これは有機野菜ですか?」と聞かれることがあります。この問いに、私はいつも少しだけ答えに詰まります。

うちは農薬も化学肥料も使わずに野菜を育てています。だから「はい」と言いたいところなのですが、厳密に答えるなら「いいえ」になります。「有機野菜」という言葉は今、法律で守られた呼び名で、国の認証を受けた野菜だけが名乗れることになっているからです。うちはその認証を取っていません。だから、育て方は有機でも、「有機野菜です」とは胸を張っては言えないのです。

なんだか、ややこしい話です。でも、この「ややこしさ」の中に、私が農業でいちばん大事にしていることが隠れています。今日は少し遠回りをして、「有機」という言葉そのものの話から書いてみたいと思います。


「有機」は、もともと農薬の話ではなかった

有機と聞くと、多くの人は「農薬や化学肥料を使わないこと」を思い浮かべると思います。でも、この言葉が生まれた頃、意味していたのは、実はそこではありませんでした。

農業を指す言葉として「organic(オーガニック)」を最初に使ったのは、1940年、イギリスのウォルター・ノースボーンという人だと言われています。彼が本の中で使ったのは「an organic whole」、日本語にすると「有機的な、ひとつのまとまり」という言い方でした。畑の土も、そこに育つ作物も、虫も微生物も、そして作る人も食べる人も、全部がつながって、ひとつの生き物のように回っている。そういう状態を「organic」と呼んだのです。

言葉のなりたちを見ても、そうなっています。organic は organ(器官)から来ていて、もとをたどれば「ばらばらのものが結びついて、ひとつとして働いている状態」を指す言葉です。心臓や肺がそれぞれ勝手ではなく、つながり合ってひとつの体になっているように、です。

日本語の「有機農業」という言葉が生まれたのも、実はそんなに昔ではありません。1971年、一楽照雄さんという人が「日本有機農業研究会」を立ち上げたときに名づけたものです。この「有機」は、「天地有機」——天地には機(からくり、仕組み、法則)がある、という言葉から取られたそうです。ここでも核にあるのは「つながり」や「仕組み」であって、「農薬を使わない」はその中の一つの表れにすぎませんでした。


農薬を使わない、が先ではない

この「天地有機」という考え方は、私がやっている自然農法の理念と、深いところでつながっています。

畑というのは、土があって、そこに作物が育ち、虫がいて、目には見えない微生物が働いて、そして作る私と食べてくれる人がいる。そのすべてが、細い糸で結ばれて、ひとつの生き物のように回っています。どれか一つだけを都合よく取り出して動かすことは、本当はできません。

農薬は、この連鎖のどこかを断ち切るものです。たとえば、ある虫を薬で退治すると、その虫を食べてくれていた別の虫やクモや鳥まで、いなくなってしまう。畑の中で虫同士がとっていたバランスが崩れると、こんどは薬なしでは抑えられなくなります。一度連鎖が切れると、「農薬を使わないと作れない畑」になってしまう。順番でいうと、農薬を使うから、農薬が手放せなくなるのです。

化学肥料も、私は同じように見ています。土の中では、微生物が枯れ葉や生き物の亡骸を少しずつ分解して、作物の養分に変えていく循環が、いつも起きています。ところが化学肥料で養分を直接与え続けると、その微生物たちの出番がなくなっていく。すると土はだんだんやせて、また肥料を足さなければ作物が育たなくなる。土の中の循環をちゃんと見ていれば、化学肥料に頼りきることには、自然とためらいが出てきます。

だから私にとって、「農薬を使わない」「化学肥料を使わない」は、先にある目標ではありません。まず、自然界がもともと持っている、自分で保とうとする力がある。その力を信じて、なるべく邪魔をしないようにしていく。そうやっていくと、結果として農薬にも化学肥料にも頼らなくなる。順番が、逆なのです。

この感覚は、実は新しいものではありませんでした。1962年、アメリカのレイチェル・カーソンが『沈黙の春』という本で、農薬が生き物のつながりを壊していくことに警鐘を鳴らしています。それは「農薬をやめよう」という主張である前に、「生き物同士のつながりを、もう一度見つめ直そう」という問いかけでした。有機という言葉が生まれた頃の人たちが見ていたのも、きっと同じ景色だったのだと思います。


制度になるとき、意味が絞り込まれた

では、なぜ今、「有機=農薬を使わない」というイメージになっているのでしょうか。

きっかけは、有機という言葉が広まって、逆に混乱を生んだことでした。日本では1992年に、有機の表示についての国のガイドラインができます。ところが、これには強い決まりがなかったため、「有機」「減農薬」といった紛らわしい表示が売り場にあふれてしまいました。買う人は、どれが本当なのか分からない。これでは、かえって不信感を招いてしまいます。

そこで国は、1999年に法律を改正し、2000年から2001年にかけて「有機JAS」という制度を作りました。国が認めた検査機関のチェックを受け、基準を満たした野菜だけが「有機」と名乗れる。マークもできました。これは、とてもいいことだと私は思っています。言葉がきちんと定義されたことで、知らない人同士でも「これは信頼できる」と分かるようになったからです。

ただ、ここで一つ、切り落とされたものがあります。

法律で運用するためには、検査ではっきり白黒がつく基準でなければなりません。「土や人のつながり」といった、目に見えず数字にもできないものは、そのままでは基準にできない。だから制度には、いちばん確かめやすい部分——「化学的に合成された農薬・肥料を使っていないか」——が抜き出されて残りました。

言い換えると、「有機的な関係」という、もともと言葉の真ん中にあった意味は、制度の網からこぼれ落ちたのです。今わたしたちが「有機」と聞いて思い浮かべる姿は、長い歴史の中で、検査できる一部分だけが残ったものだ、とも言えます。


うちが選んでいるのは、こぼれ落ちた方

私が有機JASの認証を取っていないのには、いくつか理由があります。

一つは、そもそも、お店に並べて知らない人に売ることを考えていないからです。うちの野菜は、定期宅配で、直接お客さんに届けています。顔の見える相手にだけ届けているので、第三者に「これは有機です」と保証してもらう必要が、あまりないのです。

費用の問題もあります。認証を取るには、検査の費用が毎年かかります。しかもこの費用は、育てている品目や畑の数が増えるほど積み上がっていく仕組みです。うちのように、一年で百種類近くの野菜を少しずつ作っている農園にとっては、正直、現実的ではありません。認証を取れば、その分は野菜の値段に乗せるしかない。それなら、その費用の分だけ、お客さんの箱に野菜を一つでも多く入れたいと思うのです。

だから、「有機野菜ですか?」と聞かれたときの私の答えは、相手が何を知りたいかによって変わります。「農薬を使っていますか?」と聞かれたなら、「使っていません」とはっきり答えられます。でも「有機野菜ですか?」と聞かれたら、「厳密には認証を取っていないので、有機野菜とは名乗れないんです」と答えることになります。

一度、「完全無農薬ですか?」と聞かれたことがありました。どこかで見かけた言葉を、そのまま尋ねてくださったようです。これが、いちばん答えに困りました。「完全」を証明するのは、実はとても難しいのです。うちの畑は山あいの、川の上流にありますが、それでも川上にはまだ田んぼがあります。用水にごくわずかな何かが混じっていないと、言い切ることはできません。空から飛んでくるものだってあるかもしれない。「まったくのゼロ」を証明するのは、「無いこと」を証明するのと同じで、どこまでいっても難しいのです。だから私は、言えることだけを、正直に言うようにしています。

念のため書いておくと、これは有機JASを取っている農家さんを、どうこう言う話ではありません。むしろ、きちんと基準を決めて、それを守って認証を取ることは、立派なことだと思っています。特に、大きな規模で、たくさんの人に届けている農家さんにとっては、認証は信頼を伝えるための、とても有効な手立てです。資材を選ぶときにも「有機JAS適合」と書いてあれば選びやすい。制度があることで、助かっている場面はたくさんあります。

ただ、昔からある言葉が、気軽には使えなくなった。それだけが、少しだけ残念だな、と思うくらいです。


「関係」は、野菜そのものに表れる

「有機的な関係」なんて言うと、ずいぶん立派に聞こえるかもしれません。でも私にとっては、もっと日々の、地味なことです。

たとえば、うちで作る野菜の種類は、お客さんのおかげで少しずつ増えてきました。九州から大阪に来られたお客さんに「カツオ菜はありませんか」と聞かれたことがあります。私は知らない野菜だったので調べてみると、福岡のあたりでお正月の博多雑煮に欠かせない、昔からの野菜でした。「かつお出汁がなくてもおいしい」というのが名前の由来だそうです。試しに育ててみたら、これがとてもおいしくて、今ではうちの定番になりました。お客さんに教わって、私の畑が豊かになる。こういうことが、直接つながっているからこそ起きます。

品種を選ぶときにも、この関係が効いてきます。たとえばキュウリ。市場に出回っているのは、トゲがなくて、表面のツヤが均一な、箱詰めや輸送に強い品種が中心です。傷つきにくく、日持ちもいい。売る側にとっては都合がいいのです。

でも、私が育てているのは四葉(すうよう)キュウリという、あまり見かけない品種です。トゲがあって傷つきやすく、日持ちもよくないので、市場ではあまり見かけません。その代わり、皮が薄くてパリッとして、キュウリらしい香りが濃い。おいしさで選ぶなら、私はこちらです。市場に出すことを第一に考えていたら、たぶんこの品種は選べません。「誰に届けるか」がはっきりしているから、「輸送に強いか」より「食べておいしいか」で選べるのです。

だから毎週、野菜セットに何を入れるかを考える時間は、私にとってはお客さんへのちょっとした手紙のようなものです。今週はこれがよく採れた、これは初めて挑戦した、これは今がいちばんおいしい——そんなことを考えながら詰めています。

正直に言えば、私自身もまだ発展途上です。年間百品種以上も作っていれば、何年たってもうまくいかない野菜があります。そういう年は、野菜セットに入れる品目表に「今年もいまひとつでした」と正直に書いたりもします。逆に、ある年ふっとコツをつかんで、「今年はうまくできた」と書ける野菜もある。農業は一年に一度しか作れないものが多く、天気も毎年違うので、私たちは「毎年一年生」なんて言い方をします。その一年生ぶりも含めて、長く取ってくださるお客さんは、なんとなく分かってくださっているような気がします。

ありがたいことに、うちには五年、十年と続けてくださるお客さんがたくさんいます。お子さんが進学で家を離れるときに「あの子の下宿にも送ってあげてほしい」と言われて、親子で別々に届けるようになったこともあります。しばらくお休みされて、何年か経って「また始めたいです」と戻ってきてくださる方もいます。こういう関係は、一回きりの売り買いからは、なかなか生まれません。


うちは、昔ながらの方を大切にしています

「有機」には、いつのまにか二つの顔ができました。一つは、法律できちんと定義された「制度としての有機」。もう一つは、言葉が生まれたときからある「関係としての有機」です。

知らない人同士が信頼し合うには、制度としての有機が要ります。それはとても大事な仕組みです。ただ、うちが大切にしているのは、もう一方の「言葉が生まれたときからある、昔ながらの有機」のほうです。制度化の途中でこぼれ落ちてしまった、もともとの意味。農家と食べる人が直接つながって、お互いに影響を与え合いながら野菜を育てていく。その関係そのものを、私は「有機」だと思っています。

お客さんに教わってカツオ菜を作り、おいしさで四葉キュウリを選び、毎週の野菜セットに手紙のような気持ちを込める。長く取ってくださる方と、一年生のような失敗も分かち合っていく。派手なことは何もありませんが、こういう一つひとつが、私にとっての「有機的な関係」です。

認証のマークはありません。その代わりに、聞いてもらえればいつでも正直に答えますし、畑のことも隠さずお伝えします。顔の見える距離で野菜を届けること。昔ながらのこのやり方を、これからも大切に続けていきたいと思っています。

この考え方が、産直ポータルとの向き合い方にもつながっています。
大阪の農家は食べチョクをどう考えた?

大阪府千早赤阪村で農園を営んでいます。農薬・化学肥料を使わない、自然に沿ったじっくり栽培で育てた野菜を、関西を中心に農園より直接お届けしています。

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